【沖縄 首里】AKIRAXさんぽ|首里城公園を朝に歩くと見えてくる歴史と癒し

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皆さん!こんにちわ!
AKIRAXでございます!今回は、「【沖縄 首里】AKIRAXさんぽ|首里城公園を朝に歩くと見えてくる歴史と癒し」の散歩です。

今回は、フルバージョンですので、歴史や史跡をめぐってのんびり散歩となります。

近辺に宿泊や観光の際には、参考にして頂ければ、幸いです

関連記事もありますので、参考にしてみてください。

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首里城公園を朝、散歩する

首里城公園 入口

ここから首里城公園に入ります。

朝の7時くらいですが、同じように朝から散歩をしている方は、以外に多いですね。

珍しい?懐かしいポストあり

現役で丸型のポストがあります。
現役の様で、集荷の時間帯が記されています。小学校が近いので「ひらがな」で書かれています。

代表的な門 守礼の門

やはりこの門でしょう!きれいです!

守礼の門ですね。特に朝の守礼の門は神々しい感じがします。

「守礼(しゅれい)」とは「礼節を守る」という意味で、門に掲げられている扁額(へんがく)には「守礼之邦(しゅれいのくに)」と書かれている。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味である。首里城は石垣と城門の多い城であるが、中でもデザイン上バランスがとれ、エレガントな雰囲気のある代表的な門がこの「守礼門」である。中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されている。

首里城での多数の城門や建築物には「公式の名称」の他に「別名」が付けられている。それらの呼び名から往時の琉球人の詩的な感覚が読みとれる。守礼門は古くは「首里門(しゅりもん)」ともいわれたが、庶民は愛称として「上の綾門(いいのあやじょう)」と呼んだ。「上の方にある美しい門」という意味である。

1527~55年(第二尚氏4代目尚清王(しょうせいおう)代)にはじめて建立され、1933年(昭和8)に国宝に指定されたが沖縄戦で破壊された。現在の門は1958年(昭和33)に復元されたもので、その後今日まで沖縄を象徴する観光施設として利用されている。2000年の記念紙幣2,000円札の絵柄にもなっている

首里城公園公式サイトより引用

(歓会)再会の門

首里城の城郭(じょうかく)内へ入る第一の正門で、「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。

首里城は外郭(外側城郭)と内郭(内側城郭)により二重に囲まれているが、ここは外郭の最初の門で、別名「あまえ御門(あまえうじょう)」ともいう。「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味する。

創建は1477~1500年頃(尚真王代)で、沖縄戦で焼失したが、1974年(昭和49)に復元された。門は石のアーチ状の城門の上に木造の櫓(やぐら)が載せてある。このスタイルは後述する久慶門(きゅうけいもん)、継世門(けいせいもん)、等と同じである。

門の両側には「シーサー」という一対の石造の獅子像があるが、これは魔除けの意味で置かれている。

首里城公園公式サイトより引用

「歓会(かんかい)」門からの城壁

かんかい門から下方向へ

かんかい門から下方向へ向かうと、池があります。その間に沖縄戦のなごりがありました。

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第32軍司令部壕

第32軍司令部壕は、第2次世界大戦中に大日本帝国陸軍によってアメリカ軍による沖縄侵攻に備えるために首里城の地下に作られた壕群です。工事が始まったのは1944年12月で、1945年3月に沖縄戦が始まる直前まで続きました。司令部は、5月末に日本軍が島の南部に後退するまで、約1ヶ月間使われました。この司令部の施設は、沖縄戦における首里城の命運、そして沖縄の人々が払った甚大な犠牲と失われた人命について理解する上で重要です。

首里に作られた理由

首里城は、琉球王国が廃止されて沖縄が日本の県になった1879年に日本軍の駐屯地になりました。その数十年後、太平洋戦争で連合軍が日本に近づいてくると、日本軍は侵攻を想定し、それに備えるために極めて攻め入られにくい防衛体制が必要になると考えました。日本が占領した太平洋の島々の多く、そして沖縄や日本本土で、地下に防衛用の施設が作られました。この大規模な司令部壕は、いくつかの有利な点を活かすように作られました。首里城が立つ丘は、硬い琉球の石灰岩でできており、激しい艦砲射撃や空襲にも耐えられると考えられました。また、首里城が立つ丘は標高が高く、周囲の地形をよく見渡せました。ここに軍の基地を置くことで、侵攻時には必然的に攻撃目標となり、首里城やその他の貴重な歴史的遺構が失われるリスクがあるのではないか、ということは考慮されなかったようです。4月と5月のアメリカ海軍の戦艦からの大規模な艦砲射撃では司令部壕が集中的に破壊され、その後の地上戦や空襲も重なり、首里では地面に立つものほぼ全てが破壊されました。日本軍の駐屯隊は、5月末に南部の摩文仁に逃れることができました。司令部壕は一部が破壊されずに残っていますが、危険すぎるため一般公開はされていません。

配置と設備

司令部壕は5本のトンネルが1本の中心トンネルから枝分かれする構造になっており、長さは合計1キロメートルほどです。司令部壕はハンタン山のコンクリートの入り口から首里城の下に続き、反対側の金城町に達します。最も深いところで、首里城から約30メートルの深さがあります。5つの大きな入り口がありましたが、そのほとんどは今では見ることができなくなっています。トンネルには、1,000人の士官、志願兵、労働者、学生などのための施設が作られ、その中には朝鮮半島からの労働者も含まれていたとの説もあります。兵器庫や技術関連の施設に加えて、数多くの事務所、台所、談話室、そして居住区がありました。司令官用の大きな部屋や会議室もありました。

撤退と戦後における重要性

日本軍はこの場所から撤退する際、この場所が侵攻してくる軍によって使われることがないように、爆薬を爆発させました。これによって一部は崩壊しましたが、その他は無傷のままでした。戦後、まだ入ることができる部分には崩壊を防ぐために鋼鉄の柱や梁が設置され、安全のために入り口は塞がれました。その後時間をかけて、沖縄戦や首里城に関して教えてくれる遺構としての評価が高まりました。

首里城公園公式サイトより引用

「弁財天堂(べざいてんどう)」

「円覚寺(えんかくじ)」の前の池は「円鑑池(えんかんち)」、池の中央にある赤瓦の堂を「弁財天堂(べざいてんどう)」という。

「円鑑池」は1502年に造られた人工池で、首里城や円覚寺からの湧水・雨水が集まる仕組みになっている。また、ここからあふれた水が隣の池「龍潭(りゅうたん)」へ流れている。沖縄戦で破壊されたが、1968年(昭和43)に修復された。池の水深は3メートルほどである。

「弁財天堂」は航海安全を司る水の女神・弁財天を祀(まつ)っていた。建物は当初1502年に朝鮮から贈られた方冊蔵経(ほうさつぞうきょう)を納めるために建立されたが、1609年の薩摩侵入で破壊された。 1629年に修復、このとき円覚寺にあった弁財天像を安置したが、その後荒廃したため1685年に薩摩から新像を移した。しかし、これも沖縄戦で破壊され、その後1968年(昭和43)に復元された。

堂にわたる小橋は「天女橋(てんにょばし)」と呼ばれ、中国南部の駝背橋(だはいきょう)の特徴をもち、石の欄干(らんかん)には蓮(はす)の彫刻等が施されている。

また、円鑑池と龍潭(りゅうたん)の間の水路にかけられたアーチ状の橋は「龍淵橋(りゅうえんきょう)」といい天女橋(てんにょばし)と同年代の建造と推定されている。

首里城公園公式サイトより引用
「弁財天堂(べざいてんどう)」

この周辺ですが、鴨なのか?アヒルなのか?は分かりませんが、放し飼いにされています。人を恐れたりはしませんが、手に触れることは嫌がる感じですね。

円覚寺(えんかくじ)

円覚寺

かつて首里城周辺には仏教の寺院や御殿(うどぅん)(王族や家臣の建物)等が多数あり、屋敷を囲む石垣や鬱蒼とした樹木と相まって王都の雰囲気を醸し出していた。その中でも寺院の代表的なものが「円覚寺」である。 この寺は1494年に創建された沖縄における臨済宗(りんざいしゅう)の総本山で、第二尚氏王統歴代国王の菩提寺であった。寺は禅宗(ぜんしゅう)の「七堂伽藍(しちどうがらん)」の形式で建造され、境内(けいだい)には多くの建物が配置されていた。 中でも仏殿は琉球建築の粋を集めた建築物で、内部中央の須弥壇(しゅみだん)には仏像が安置され、装飾が施されていた。1933年(昭和8)に総門(そうもん)、山門(さんもん)、仏殿(ぶつでん)等計9件が旧国宝に指定されていたが、すべて沖縄戦で破壊された。 その後1968年(昭和43)より復元整備が進められ、現在総門とその両側の石垣、右脇門、放生池(ほうじょうち)が復元された。なお、池にかかる放生橋は往時のもので、国指定重要文化財である。

首里城公園公式サイトより引用

首里城郭内に入るための第二の門「瑞泉門」。すぐ脇にちなんで「立派な、めでたい泉」という意味の「瑞泉」と名付けられました。別名「ひかわ御門(うじょう)」とも。「ひ」は「樋」、「かわ」は「川」。「樋」は川や泉から水を導く長い管のことで、「川」は、沖縄では井戸や泉のこと全てを指し、「樋川(ひかわ)」はそれら全てを合わせた言葉になります。

たびらいより引用
大アカギ
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文化財(国指定天然記念物)指定年月日:昭和47年5月15日
首里城跡(しゅりじょうあと)の南、内金城嶽境内(ウチカナグスクタキけいだい)に推定樹齢200年以上と思われるアカギの大木が5本自生している。幹の高さは約20mほど。アカギは沖縄県内では普通に見られる樹木だが、このような大木群が住宅地に見られるのは内金城嶽境内のみである。第二次世界大戦前までは、首里城周辺にもこのようなアカギの大木が多く生息していたが、そのほとんどが戦争で焼かれてしまい、現在では数本見られるのみである。

那覇市観光資源データベースより引用
公園内をぐるっと回ります

公園内には、散策ルートがあります。首里城をぐるっと回れるルートです。階段が続いていきます!

昔の道

こちらは、階段に並行された道です。今は進入禁止になっていますが、昔の道(本当の道)ですね。

結構な段数があります。
まだまだ続きますよ。
ここが最高峰です。

最高峰からの眺め

日も登り始めて最高の眺め
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復路へ

復路ルートへ

首里の街並みに降り立ちます

首里城の外郭の第3門で「赤田御門(あかたうじょう)」とも呼ばれ、正殿の裏側にあたり、日常の通用門として使われていました。また、国王死去の場合は世継ぎの王子が、王位継承の際にこの門を通って城内に入ったので、継世門と名付けられています。1998年3月に復元工事が完了し、歓会門・久慶門とともに外郭の3つの門が完成しました。

沖縄県公式首里城復興サイトより引用
泡盛の老舗ずいせん

ルートには、泡盛の老舗の「ずいせん」もあります。

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首里城南口バス停

はい、このバス停、私のお気に入りです!なぜお気に入りなのか?バス停の屋根に植物が生えてるのが、なんだかシュールで好きな雰囲気です。

通常なら取り除きそうですが、残したままなのが、共存共栄を意識している気がします!

見るたびに、いいな~って感じます!

まとめ

今回は、「【沖縄 首里】AKIRAXさんぽ|首里城公園を朝に歩くと見えてくる歴史と癒し」をご紹介しました。

如何でしたでしょうか?

首里城公園をぐるっと1週することが出来ます。

全体で約3.5㎞くらいでアップダウンはありますが、程よいルートです。歴史を感じながらの散歩で消費カロリーは200kcalですね。

大したカロリーではないと思うかも知れませんが、朝一番の200kcalは1日通して大きなものになると思います。

なにより、歴史を感じる事、朝の良い空気の中で運動が出来た喜びなど、総合的に考えると心身にとても大きな効果があるのでは?ないか?と思います。

関連サイト:

「沖縄|首里 朝の散歩途中にみかけた首里城公園周辺の気にるお店3選!ただし、気になっただけで検証はしていません。」

もご覧いただければと思います。

皆さん、最後までお読みいただきありがとうございました。

また、次の記事でお会いしましょう!AKIRAXでした!ありがとうございました。

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